2012年、プラスチック段ボールの餌箱にたべにきた猫 (富岡町)
2012年、プラスチック段ボールの餌箱にたべにきた猫 (富岡町)

福島に残された猫たち 餌やりに7年通う写真家の目に映るもの

 福島の第一原発事故で、周辺住民が避難した後、被災地には多くの犬や猫たちが残された。直後から現地に車で入り、餌やり活動を続けているフリーカメラマンの太田康介さんに同行して、話を聞いた。

(末尾に写真特集があります)

 昨年末の平日、福島県双葉郡浪江町に猫の餌やり活動に向かう太田さんの車に同乗させてもらった。車は大きな身体に似合わぬ小さな軽自動車。太田さんは作業服に身を包み、頭にタオルを巻いている。後部座席にはドライタイプのキャットフードと工具類が積まれていた。

「ふだんは日曜、朝2時くらいに出ます。この格好でいくのは、すぐに餌台の修繕ができるし、目立ちたくないから。小回りが利くので、軽自動車は重宝するんです」

 この日の出発は朝5時。途中休憩をはさみながら常磐道の広野インターから楢葉町に下り、6号線を北上して浪江町へと向かった。車中で太田さんが話す。

2011年、「なんとかしないと」とパッケージごと急いで猫にあげていた
2011年、「なんとかしないと」とパッケージごと急いで猫にあげていた

「今は月2回、(福島第一原発20㎞圏内の)浪江町を中心に19か所、餌台の確認や補充に通っています。(警戒区域の制限などが出る前は)週1回、もう少し手広く55か所に餌台を取り付けていたこともあります」

◆「なんとかしなければ」

 回数や台数は減っても、往復約8時間の餌やり活動を継続している。“福島通い”を始めた動機は何だったのか。

「(事故発生直後)ジャーナリストの山路徹さんが福島に入り、現地の状況を報告していました。そこに犬が写っていたんです。さまよう犬たちが、ご飯を道端で分けてもらっていたのですが、それでは足りないだろう。それに犬がお腹を空かせているなら、きっと猫も空かせているはず。なんとかしなければ、と思ったんです」

 太田さんはいてもたってもいられず、3月末、犬と猫のフードと水を車に詰めこんで東北へ向かった。その時は都内から一般に開放されたばかりの東北道に入り、二本松で降りて、阿武隈山地を越えて南相馬市に入ったという。

「もっと早い段階から福島に入って動物を保護しているボランティア団体もおられたので、状況を聞き、現地で犬や猫を探したんです。寒い時期で車中泊ができず、営業していたホテルに泊まりました」

2012年6月、餌箱の側に来ていたキツネ
2012年6月、餌箱の側に来ていたキツネ

 太田さんはもともと東京でも多摩川べりや近所の猫を保護する活動をしていた。そのため、やがて思いは猫に集中していく。猫は人から隠れるように身を潜めていることが多いため、活動はスムーズではなかった。もちろん被曝の怖さもある。

「最初はフードが雨に濡れないように、袋のまま、避難した家のカーポートや納屋に置いていきました。そうすると、猫だけでなく、野生動物も食べに来て、フードの包みを散らかしたり、周囲にフンをしたんです」

 4月半ばになると、放射性物質の線量もとに3つの避難区域が決まり、第一原発20キロ圏内は警戒区域になった。その後、一時帰宅が始まると、民家の軒下にあるフードの残骸やフンに関して苦情も出たが、動物の命に関わることなので、ボランティアに協力をしてくれる住民もいた。

「自分でガイガーカウンターを購入し、すばやく餌を置きました。1匹でもいい、飢えないように、ぎりぎり命をつないでくれ、という思いでした」

 2012年4月には警戒区域と計画的避難区域が3つ(避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域)に分割され、さらに制限が出た。そこで太田さんは、浪江町在住のボランティア赤間徹さんと、獣医の豊田正さんと協力関係を結び、町の許可を得て浪江町を中心に給餌活動をすることにした。

「餌箱もいろいろ形を変えました。最初の頃(2011年夏)に作ったプラスチック段ボールに無数の噛み痕があり、猫ってこんなふうに嚙むのかな、と思い、電池式の監視カメラを買って設置したんです。すると、キツネ、イノシシなどが餌を食べに来ていることがわかりました。それでは猫が食べられないので、だんだん高い場所に取り付けるようにしたんです」

 押入れ収納ケース、木箱、と改良を続けた餌台を、廃屋や公共の場などに工夫して取り付けるようになった。赤間さんと豊田獣医師は、住民が戻ったときに、野良猫が増えていないように(2013年から)避妊去勢を続け、野生動物から餌を守れる太田さんの餌台を採用してくれたのだという。

 与える餌は、親交がある翻訳家の松浦美奈さんから個人的に寄付を受けている。太田さんの餌やり活動を知って共感してくれたのだという。

◆減った餌で生存がわかる

 東京を出てから約4時間半、9時40分過ぎに浪江町に到着した。太田さんはまずは丈六公園。しかし餌台は地面に落ちていた。

「ああ、やられた、犯人はイノシシだな」

 設置をし直し、車を走らせ、学校の鉄柱や牧場の入り口などに取り付けた餌台を順に見て回る。昨春、浪江町は帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたが、実際に町を訪れると戻った住民は少なく、思いのほか静かだった。作業する人以外、町民に出くわすことはほとんどない。

「よーし、減っている」と、声をあげたのは、別の公園のジャングルジムの上に付けた餌置き場だった。

「見えない便りみたいなもんです。生きていてくれているのがわかるから。この頃は猫に会う機会も、餌を食べた跡も減りましたが、猫の赤ちゃんは今も生まれますよ」

2016年 楢葉町の製作所にて
2016年 楢葉町の製作所にて

「誤解を恐れずいうならば」と前置きして、太田さんは少し悲しそうに話す。

「動物たちが取り残されて悲惨なことになったのは、原発のせいだけではなくて、私たちの意識の問題だったとつくづく思う。本当を言うと、餌やりは住民の方が帰ってきて面倒を見るまでの“つなぎ”のつもりだったんですが、そうもいかなくて……」

餌箱修理中の太田さん
餌箱修理中の太田さん

 東京から通い続けることに、不思議がる現地の人も少なくなかったという。

「だんだん理解をしてくださいましたけど、いろいろな葛藤や複雑な思いと闘いながら餌やりを続けてきたんです。僕は怖いんですよ。日本人の意識が大きく変わらない限り、また同じようなことが繰り返されるのではないか……。大変な震災の中、そんなことも考えあぐねた7年でした」

 保護しても引き取り手を探しにくく、収容するスペースもないため、太田さんは普段は猫を見つけても保護することはしない。だが、昨秋、人慣れしていた母猫と4匹の子猫を福島県内で保護したという。

「母猫は避妊して元の場所に戻し、子猫3匹は譲渡先を見つけ、1匹はまだ自宅にいます。近所で保護した猫と一緒に一時預かり中です」

 その後、太田さんは許可証を携えて、帰還困難区域にも餌やりに出かけて行った。すべての作業を終えて、浪江町を後にしたのは夕方だった。再び軽自動車での長旅が始まる。

「ここから東京まで約5時間、道程は長いけど頑張りましょう。僕は固い煎餅をぼりぼりかじって眠気を覚ますよ」

 そして、大きな身体で太田さんは宣言した。

「これからも福島の猫を見守る」

藤村かおり
小説など創作活動を経て90年代からペットの取材を手がける。2011年~2017年「週刊朝日」記者。2017年から「sippo」ライター。猫歴約30年。今は19歳の黒猫イヌオと、5歳のキジ猫はっぴー(ふまたん)と暮らす。@megmilk8686

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