身体と心に傷を負い、人を恐れた元野良猫 女性画家に看取られて

警戒心が強く机の下にいることが多かったクロ(愛さんの自室で)
警戒心が強く机の下にいることが多かったクロ(愛さんの自室で)

 若い女性画家の白い手の甲や腕には、いくつかの傷あとが残っている。何年も前、かわいがっていたオス猫に引っかかれたものだ。猫は元野良猫。虐待を受けた経験があるのか、人に懐かず、身体を触らせることはなかった。心に焼き付いた愛猫との思い出を女性に語ってもらった。

 

(末尾に写真特集があります)

 

「怖いくらいの勢いで引っかかれました。でも私、彼のことが大好きでした」


 神奈川県横浜市に住む画家、大野愛(めぐみ)さん(29)が愛した猫の名前は「クロ」。一昨年の春に旅立ったが、その気性の荒さから、一緒に写った「2ショット写真」は1枚も残っていない。それでも、いまだに大事な存在だという。

 

ひどく衰弱していた保護時(2012年5月)
ひどく衰弱していた保護時(2012年5月)

◆痛々しい“虐待”の痕

「クロと初めて会ったのは6年前。かなりひどい“虐待”を受けた猫でした」


 大学を出て、絵の道へ進むことを決めた愛さんは、自宅から近い横浜・元町の古いアパートの1階にアトリエを構えた。クロはその庭に時々ふらっと現われる、年齢不詳の黒い野良猫だった。


「ある時(2012年5月頃)、すごく痩せた状態で、背中のあたりをケガしていたんです。事故にでも遭ったのかなと様子を見守ろうとしたら、数日後にさらに傷が増えていました」


 黒猫は息も絶え絶えな様子でアトリエの脇にうずくまっていた。口元には抜けかけた歯が見えていた。だが、近づくと、威嚇する。近所で猫の虐待が起きているという噂を耳にして、愛さんは動物保護団体から捕獲機を借り、えさでおびき寄せて捕まえ、動物病院に連れていった。


「最初の病院では、“野良猫で凶暴だから”という理由で拒否されました。2カ所目で丁寧に診察してもらったのですが、高温の油を数回にわたってかけられた火傷だろうと。歯がボロボロ抜けおちていたのですが、衰弱しきったからではないかということでした」

 

お腹をすかせ痩せたクロは、細かく砕いたフードを夢中で食べた(保護後、アトリエで)
お腹をすかせ痩せたクロは、細かく砕いたフードを夢中で食べた(保護後、アトリエで)

 診察した獣医師によれば、年齢は人の年で60代。なんとか命は助かったが、焼かれた毛は再び生えてこないだろうといわれた。愛さんは痛々しい初老猫を放っておけず、診察後に面倒をみることにした。


「当時は自宅でも3匹の猫を飼っていたので、アトリエに2段ゲージを置いて、その中で世話をしました」


「クロ」と名づけた猫は飢えていたが、カリカリを砕いて与えると、少しづつ口にした。

 

 

◆なでさせない猫

 しかし、心にも深い傷を負っていたらしく、人間を異常に恐れた。


「私が水やフードを替えたり、トイレを掃除する時もおびえて、本気で引っかいてくるので、手が血だらけになってしまいました」


 絵を描くための手が傷ついても、愛さんはクロを見放すことはできなかった。


 保護して数日後、ケージの扉を開けると、アトリエ内をうろうろ歩くようになった。部屋の隅でえさも食べるようになったが、少しでも動くとビクッとして陰に逃げる……。そんな生活が数カ月続き、お腹がすくと、ソファに乗るようになったが、クロは自分の体には一切触らせなかった。


「火傷した部分がかゆいようで、かさぶたがたくさん落ちました。そのうち、もう生えないと言われた毛が、いつしかふさふさになってきたんです。それは本当に嬉しかったですね。体重も増えていきました」


 クロは無口な猫で、「うぎゃあ」(ごはん~)と野太い声で鳴く以外は、アトリエでほとんど声を出さなかった。1人と1匹、静かな時間が流れた。

 

世話をするうちに、見違えるようにふっくらし、毛も蘇った(愛さんの自室で)
世話をするうちに、見違えるようにふっくらし、毛も蘇った(愛さんの自室で)

 2013年の初頭、アトリエを移転するため、クロも一緒に引っ越した。その後、体力が回復したクロを自宅に連れていって自室で飼うことにした。自宅なら両親もいるし、何かあった時も安心だからだ。


「自室はアトリエほど広くなく、私との距離が近いので、クロは緊張してまた隠れて。ある日、寝ているところをそっとなでたら、飛び起きてガーッと爪を立てられました。その時は、こんなに面倒みているのに、と泣きたくなりました」

 

 

◆次々に見つかった病気

 心の距離がどうしても縮まらないのだ。それでも愛さんは、「苛酷な体験をしたからこそ」と思い、クロを見守った。ある時、クロが飲む水の量が多いことに気づき、病院に連れて行くと、糖尿病が見つかった。


「インスリン注射を始めて、しばらく元気にしていましたが、口内炎が悪化しました。徹底的に検査をすると、なくなったと思った歯が一本奥に残り、そこが化膿して腫瘍になっていたんです」


 その時、大学病院で手術をすることもできたが、悩んだ末、その道は選ばなかった。


「成功の可能性が低い。人に虐待されて、人を恐れ続けるクロが、多くの知らない人の手で検査をされ、痛い思いをする。治療のためだとしても、クロにはつらいのではないかと。だから痛み止めだけ出してもらい、自宅で暮すことを選びました」


 クロの晩年は、愛さんの両親も一緒に面倒をみた。


「痛み止めを与えながら、母と交代で世話をしました。クロにとっては邪魔かなあと思いながらも、一緒に過ごす時間を増やしたりして」


 だが、クロはだんだん動けなくなり、ついに寝たきりになった。

 

愛さんのお気に入りのクッションで介護されるクロ
愛さんのお気に入りのクッションで介護されるクロ

◆最期の日の奇跡

 やがて最期の日。両親にクロを見てもらい、愛さんが入浴から戻ると、動けなかったはずのクロが体を起こそうとしていた。まるで自分を探しているようだった、と愛さんは感じた。


「『ここにいるよ。愛してる』と声をかけて、前足を握ったんです。すると、クロはその後、息を大きく吸い、顔を下のほうに向けて眠りにつきました」


 出会ってから4年。初めて体を触れさせてくれた日が、永遠の別れの日になったのだ。


「人生でいちばん温かな“握手”だった」と愛さんは振り返る。


「甘えるでもなく、一生懸命に生きようとする姿に力をもらいました。あいさつするようにして旅立った姿も、武士のようでかっこう良かった……クロは私と出会って、どう思っていたかな」


 人に裏切られた町で、優しき人に巡り合い、クロは幸せだったに違いない。

藤村かおり
小説など創作活動を経て90年代からペットの取材を手がける。2011年~2017年「週刊朝日」記者。2017年から「sippo」ライター。猫歴約30年。今は19歳の黒猫イヌオと、5歳のキジ猫はっぴー(ふまたん)と暮らす。@megmilk8686

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この連載について
ペットと人のものがたり
ペットはかけがえのない「家族」。飼い主との間には、それぞれにドラマがあります。犬・猫と人の心温まる物語をつづっています。
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